DR潜脳調査室は、2008年にテレビで放映された2クールのアニメです。
原作・士郎正宗 / Production I.G、制作・Production I.Gで、「攻殻シリーズの姉妹作品」という位置づけで作られました。
私はRD大好きなんですが、攻殻機動隊と違ってRD潜脳調査室はスベってる扱いされることが多いです。
なぜだ!
なぜ人気がでない!
というか私が大好きなのはなぜだ!
監督と映画の話以外ではどのへんに差があるのかなと考えてみたことがあるので、そのことについて書いてみようと思います。
士郎正宗の作品郡は、ほとんどがSF作品のサイバーパンクという分類がされるものです。
サイバーパンクの立場とは、「人間本性」は「科学技術」によっては完全には語られ得ないというものです。
こうした立場が、攻殻機動隊はもちろんだが、仙術超攻殻ORION、ドミニオン等の著作でも形を変えてずっと貫かれています。
RDでも同様です。
脳内に電子計算機を持つ、身体が人工化する等して「科学技術」が「人間」に限りなく近づいたとき、「人間」はどのようなものとして捉えられるのか。
「人間本性」のアイデンティティーを保持しているのでなければ、「人間」は「科学技術」に対してどのような存在として捉えられるようになるのか。
このように、「人間本性」への問いは共通しています。
ではどのような違いによって攻殻機動隊が流行って、RDがスベったのでしょうか。
そして私はRDが好きなのでしょうか。
違っている感じは何となくありますが、とりあえずは取り扱う事件の規模が違うことがすぐにわかります。
攻殻機動隊での事件のシミュレーションは、基本的には社会レベルというメゾ視点になっています。
RD洗脳調査室では、「人間が機械文明に生きることで立ち現れる、個人的な問題」というミクロ視点で事件を扱います。
私は社会に対して強い帰属意識や共感、実感を持っているタイプではありません。
自らの「本性」について思考するときも、自己反省からでしかできない。
このような考え方だから、私はRD洗脳調査室で描かれる事件のほうがリアリティを持って想像することができました。
性感プログラムや戦闘アンドロイド、味覚プログラムなんかは、私が攻殻機動隊を見ながら「ほんとにこういう社会になったら、こういうことが起こるだろうなぁ」と考えていたことと同じもの。
我が意を得たり!というやつです。
性感プログラム
ネットの世界のエロい美女にはまりすぎて、現実世界で餓死してしまったオッサン
(真ん中のセクシーな顔の人は、現実世界ではオッサンです)
#5
戦闘アンドロイド
やっぱり人間では勝てなくなった戦闘アンドロイド
最終的には勝ってたけど
#15
味覚プログラム
ネットの世界での美食体験によって現実世界の感覚まで研ぎ澄まされすぎ、水に入っているミネラルの味まで感じるようになってしまう。
その結果、現実世界で食事ができなくなってしまったオッサン
これに関連して、ネットの世界の視覚化にも違いがあります。
攻殻機動隊で描かれているネットの世界は、多くの人が現在イメージするようなものとして描かれているのではないでしょうか。
尤も、このイメージを作ったのが攻殻機動隊であるということは言えるかもしれません。
これは大量の「線」によって繋がっているイメージです。
RD洗脳調査室では、ネットの世界は海の中にいるイメージで描かれています。
今後も「線」が増え続け、「線」としてイメージできなくなるほどに増えたら、そのつながりは「水」のイメージで捉えられるということでしょう。
ちなみに私もそう思う。
世界中と繋がっている「水」は、すなわち「海」ということになります。
だからRDの中では、インターネットに接続することを「ダイビング」と呼ぶ。
「ダイビング」においては意識と情報技術とが深くリンクしているため、「ダイビング」中に何かしら事故が起こると、両者が混濁して脳がバグってしまいます。
(物理的な意味での脳内にも、コンピューターがありますからね)
これは現実世界での「溺れる」というイメージで捉えられています。
書きながら思いましたが、この違いは流行りには関係ないっぽいですね。
RDのネットの世界
「水」の中に浮かぶ、形のある障壁など。
電波なんかで繋がり、その中でファイヤーウォールに囲われて存在する個人のPCと考えれば想像しやすいでしょうか。
最近言われるクラウドコンピューティングは、このイメージに近づいているように思います。
このようなミクロ視点でのシミュレーションに加え、RDはストーリーの進行と共に人間・科学技術と自然というマクロ視点のシミュレーションも同時に扱っていく展開になっています。
食料問題や環境制御技術にも触れられており、エンターテインメントを目的とする作品としてはかなり先進的な問題提起をしています。
しかし、現在の科学技術はそこまで進歩してはいないから想像の域を出ないし、人間と自然との関わりは最近論じられるようになったばかりです。
したがって、
「科学技術の進歩がいかにして自然と親和していくか。人間は、自然といかにして切り離せないものとして関わって生きて行かざるを得ないのか。」
という、クリティカルな部分の説明がどうしても視聴者任せになってしまうことになります。
この説明をつけるのが「環境倫理学」というものですが、「環境倫理学」は、その方向性すら定まらないような新らしい倫理学の分野です。
生命や自然に向かう哲学が、やっと「環境倫理学」として実益的な局面に降りてきたというのが現状です。
というかそもそも、当の倫理学において方向性は無限だし、さらに実益的とは言えないものです。
「環境」が、真に実益的と言えるものである工学などに降りてくるようになるには、これから数十年の年月がかかるのだと思います。
これがさらに、実益を補助するエンターテインメントに降りてくるまでを考えれば更に倍の時間がかかるかもしれない。
サイバーパンクは現実のものとして捉えられうるが、より現実に即した形で表現したものは、逆に実感を得にくいものになってしまうのかもしれません。
以上で結論。
1.私が想像できる科学技術の応用は、私的利用の範囲でしかなかった。
よってRDのストーリーが私にフィットした。
2.作品のテーマは、自らが持つ問いに近いものでなければ共感できない。
ここでは地球規模で科学技術が関わるときの環境倫理の話である。
以上2つの理由によって、RDは私は大好きだが流行っていないということになると思います。
特に2番目の理由のせいで、作品のテーマが高学歴アニメの名にふさわしい難解なものになってしまいました。
しかし、今後もインターネットと科学技術が発達し続ければRDが再評価される日が来るはずです。
と、私は望んでいますw
~役に立つかもしれない補足~
ミクロ、メゾ、マクロ
経済学の用語で、それぞれ、小規模、中規模、大規模、という視点でものを見ることを言う。
今回は、個人の問題、社会の問題、地球の問題という問題の規模が、この用語と対応していそうだったので使ってみた。
よくわかっていなくても、使わなきゃ覚えません!
高学歴アニメ
ストーリーや設定の、内容や展開が難しすぎて視聴側が置き去りになってしまうアニメ。
代表的なものに「シムーン」、「ergo proxy」等がある。
士郎正宗の作品はほとんど「高学歴~~」である。
RDにおいて意味のわからなかった部分を脳内補完するためには、科学と環境に関する興味と知識が元々備わっていないと無理だったのだ。